トランスヒューマン–
人が書くということは人格の継承のスタート地点に点を打つことだ。それが線となりタイムラインが生まれればver2、ver3としての「私」は認識される可能性が増す。
生が死への抗いである以上、人は書くことを止められない。
人が死を受け入れたとき、それらは本物の文学になるのかもしれない。
書物–
書物というのはあらゆる世界に向けて広がっているようで、思考という狭い世界で閉じる性質がある。
答えを求めて自身を強ばらせるために書物を手にするよりかは、遠くをぼぉーと眺めて脱力するほうが良いときもある。
とらわれ–
この世の表現は大抵「とらわれ」であると思っている。よってそれを見たものが更に囚われる循環が生まれる。
ここの断絶、そして乗り越える力を可視化するのもまた表現であると信じている。
wonder–
自分が何を中心に生きているか改めて自覚することはあるだろうか。自分は以前は視覚だった。視覚で得て、視覚で考え、視覚で出力していた。
なぜそうなったのかはよくわからない。幼少時からこだわりがあったので、そういう「生まれ」なのかもしれない。得てして人の性に理由なんてないのだ。
ソフィ・カルの作品に、海を見たことのない人に初めて海を見せ、その様子を撮影した映像があった気がする。こうした体験から得られるエネルギーはどれだけのものだろう。
子供の日々はこういった特別な得難い経験の連続だ。「?」や「!」が毎日ある。それを積み重ねて大人になるにしたがい「?」や「!」は少なくなっていく。しかしレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーで語られているように、目のつけどころ次第で自分の感覚はいつでも更新できるようにも思う。
キルリアン写真(物質のコロナ放電を捉える写真のこと)のように、特別な方法で見ようとすれば見えるものは数多くある。私はどんなときでもこの「事実を浮き上がらせるワンダー」を持っていたいと思う。
目を閉じて拠り所を探す。
燃える–
人は生きたようにしか死ぬことはできない。全力で生き切る人だけが安らかに死に切ることができる。
class–
もし美的なものにヒエラルキーがあったとすれば、人工的な美が最も下にあり、その次に皮肉やユーモアがある。そして最上位にあるのは、ただそれだけで満たされ過不足なく有ることの存在の証明ができるもの、であると思っている。
軸–
デイヴィッド・リンチのストレイト・ストーリーにてこんな会話がある。
「年寄りになって最悪なことは?」
「若者だったときの記憶を覚えていることさ」
過去を積み重ねるほど、「今を生きる」のは難しくなるものか。
力の質–
それは火か、もしくは水/風か。
近頃この2つの視点でものを捉えることが多い。
「火」は即効性があり、その強い力で簡単に状況を変えられる。しかし失うものも多い。「水/風」は火ほど劇的な力はないが、ゆっくりとものを育んでいきやがて大きな力になる。
火で問題を解決するのは楽な一方、永続性がなく未来に続いていかない。そこで水/風によって小さな変化から徐々にではあるが土壌作りをし、持続性のある変化を生まなければいけない。
正しさ、正義、正当性について目を向けると火であることが多い。人の命は短しといえど、ライフスパンで捉えては「早すぎる」物事が確実にある。だから私は常に古代から未来を行き来していたいと思う。