水の宿–
頂き物、とらや「水の宿」。
京都にいたときは身近過ぎるほどの存在だった和菓子。
ここ宮古島の透き通る海と白砂にも見立てられて良き。
小さなダイナミズム–
生きていると常に変化がある。得ることと失うこと、その連続でもある。
その変化を線で繋げば大小のダイナミズムがあらわれ、過去の時間や人間の表現を見渡すと、過剰なほどの内なるエネルギーがそこかしこにある。
しかし今ここの現実というのは、その落差をあまり認識することができない。物事は穏やかに流れておりドラマティックに演出されない。だから人は見えないものを見ようとする。この現実にドラマを加え物語として消費しようとする。
たとえ小さな出来事でも大きな物語を紡ぐことはできる。ただしそこから生きる意義を見出さないほうがよいと思っている。ただ唯一起こった事実だけが確かなのであり、それをどう捉えるかには無限の解釈がある。だからこそ人は何かを得ても何かを失っても、ただ「幸せでいれるようにいる」必要がある。
イビピーオ–
イビピーオという概念がある。
アマゾンに住む少数民族ピダハンが持つ、「人づてではなく今目の前に起こっていること」を指す言葉だ。
なるほど現代人は常に「自ら見たこと、経験したことがないもの」を信じ、恐れ、備えてきた。しかしそれら一切の価値が彼らの前では崩れ去ってしまうらしい。そして彼らはとても幸福だという。
私は知とは動的な仮固定を作ることだと思っている。絶対的な真理も、究極の接続も、突き詰めればナンセンスになる。意味とは有限化とセットであり、一時的な仮固定を連続させることだ。そこにはほぼ実感というものは介入せず、古代からの賢人の借り物ばかりである。
世には知こそがすべてをもたらすという考えもあるが、どうやらそうではなさそうだ。世界を複雑にし、苦しめている元凶は知の集合体である文明なのだろうか。
私はいくつかのリソースを知<実感として生きていきたいと思う。
循環–
絶えず進化せずとも、もうそこにある。
フィルターを通して循環して嗜む、これでいい。
世界–
世界というのはいくつもあるとも言えるし、そもそも世界はないとも言える。
少なくとも3つ、私達は「世界」を知覚する。
実在する自然世界、他者が認識する世界、そして私が見る世界。
(「世界」をすべてを包括するものと定義するか、セグメント化されたエリアとするかで意味は変わる。)
どの世界を生きるか、意識してみる。
実在する自然世界では目の前の現象を受け、そして目に見えないものを想像することができるだろう。他者が認識した世界では思いも寄らない人間の経験や知識、創作を得ることができるだろう。私が見る世界では私が思うように世界は広がり深みを増していくだろう。
それぞれの世界を呼応させて橋渡しをすることはできる。生きるというのはこの往来なのである。
喜び–
喜びとは、苦悩の大木に実る果実である。
ヴィクトル・ユーゴー
果実–
これはミズレモン(ジャマイカンリリコイ)という果実。種を含んだゼリー状の実を口に含めば表現しがたい爽やかさが口いっぱいに広がる。南国ゆえの果実の豊富さが嬉しい。
捨てる–
人生はいろんなものを捨てていく過程だとすると、私の道具である言葉も、図像も、写真も、選んで取得するのではなく捨てていくことばかり。
捨てて捨てて、それでも残るものはその事物たちが判断して、存在し活動していることを示すためだけにある。
それが最も美しいと思うし、そこにもう「私」はいないのである。