イビピーオ–
イビピーオという概念がある。
アマゾンに住む少数民族ピダハンが持つ、「人づてではなく今目の前に起こっていること」を指す言葉だ。
なるほど現代人は常に「自ら見たこと、経験したことがないもの」を信じ、恐れ、備えてきた。しかしそれら一切の価値が彼らの前では崩れ去ってしまうらしい。そして彼らはとても幸福だという。
私は知とは動的な仮固定を作ることだと思っている。絶対的な真理も、究極の接続も、突き詰めればナンセンスになる。意味とは有限化とセットであり、一時的な仮固定を連続させることだ。そこにはほぼ実感というものは介入せず、古代からの賢人の借り物ばかりである。
世には知こそがすべてをもたらすという考えもあるが、どうやらそうではなさそうだ。世界を複雑にし、苦しめている元凶は知の集合体である文明なのだろうか。
私はいくつかのリソースを知<実感として生きていきたいと思う。
循環–
絶えず進化せずとも、もうそこにある。
フィルターを通して循環して嗜む、これでいい。
世界–
世界というのはいくつもあるとも言えるし、そもそも世界はないとも言える。
少なくとも3つ、私達は「世界」を知覚する。
実在する自然世界、他者が認識する世界、そして私が見る世界。
(「世界」をすべてを包括するものと定義するか、セグメント化されたエリアとするかで意味は変わる。)
どの世界を生きるか、意識してみる。
実在する自然世界では目の前の現象を受け、そして目に見えないものを想像することができるだろう。他者が認識した世界では思いも寄らない人間の経験や知識、創作を得ることができるだろう。私が見る世界では私が思うように世界は広がり深みを増していくだろう。
それぞれの世界を呼応させて橋渡しをすることはできる。生きるというのはこの往来なのである。
喜び–
喜びとは、苦悩の大木に実る果実である。
ヴィクトル・ユーゴー
捨てる–
人生はいろんなものを捨てていく過程だとすると、私の道具である言葉も、図像も、写真も、選んで取得するのではなく捨てていくことばかり。
捨てて捨てて、それでも残るものはその事物たちが判断して、存在し活動していることを示すためだけにある。
それが最も美しいと思うし、そこにもう「私」はいないのである。
トランスヒューマン–
人が書くということは人格の継承のスタート地点に点を打つことだ。それが線となりタイムラインが生まれればver2、ver3としての「私」は認識される可能性が増す。
生が死への抗いである以上、人は書くことを止められない。
人が死を受け入れたとき、それらは本物の文学になるのかもしれない。
書物–
書物というのはあらゆる世界に向けて広がっているようで、思考という狭い世界で閉じる性質がある。
答えを求めて自身を強ばらせるために書物を手にするよりかは、遠くをぼぉーと眺めて脱力するほうが良いときもある。
とらわれ–
この世の表現は大抵「とらわれ」であると思っている。よってそれを見たものが更に囚われる循環が生まれる。
ここの断絶、そして乗り越える力を可視化するのもまた表現であると信じている。