関係の自由–
ある日宮古島でタクシーを利用した。googlemapで行き先を見せ運転手に告げた。すると「わからない」という。地図を見せても理解しないのだ。これはかなり特殊な例でいろいろ思うところはあるが、つまりこうなのだ。
「土地や建物を相対的な関係性で理解はしているが、地図のような絶対的な位置で把握をしていない。」
これは人間においてあらゆる場所で散見される現象でもある。あの人がいるから私は幸せだ、とか、慣例ではこうなのでそれに従うべきだ、とか、パセリは洋食プレートの横に添えるものだ、とか。
人が記憶するときに有効な手段として「連想」がある。ものとものを連想させて、ひとつのものからもうひとつのものを思い出す方法だ。これは一見して人間的な合理性を持っているようで綱渡りのような関係性でもある。つまり首の皮一枚つながっているような不安定さゆえにいつその文脈から外れるかわからない。
相対的な把握、絶対的な把握、どちらにもメリット・デメリットはあるだろう。しかし相対的な把握のみで生きている人間は大きな欠落を背負うことになる。そしてそれに気づく瞬間が訪れることは少ない。
絶対的把握は自由の風を運び込む。恐れずにその風に吹かれていたいと思う。
無人島–
島にいると「島」に敏感になる。
ドゥルーズの著書に「無人島の原因と理由」がある。他者がいて初めて自我が生まれるなら、無人島に人が降り立ってもそれは無人島である。なぜなら他者ありきの私が存在せず知覚構造が成り立たないからである。
一方他者が無限に存在していたら他者は不知となり、自我はぼやけてしまう。またオンラインで人と繋がる時代といっても、それは同調的他者に限るのであって、否定的な他者はブロックできる。
認識や知覚の原理は人に元から備わっているとカントはいう。しかしそれを組み立てるにもアップデートするにも他者の批判が欠かせない。
私は毎日のように近くの無人島を見に散歩にいく。無人島は無限に想像力をくれるのだ。
果実–
これはミズレモン(ジャマイカンリリコイ)という果実。種を含んだゼリー状の実を口に含めば表現しがたい爽やかさが口いっぱいに広がる。南国ゆえの果実の豊富さが嬉しい。
二億年–
これは二億年前の樹木の化石。
二億年後には今いる人はみんな死んでいるから、気にせず好きに生きればいい。
サニツ–
2024.04.11は旧暦で3月3日。普段は水面の場所も干潟になる大潮の日。
サニツ(浜下り)といい、浜に下りて足を清める伝統行事が昔から続いている。
家族で潮干狩りをする人やアーサをとる人、思い思いに過ごす人たち。
変わらないものを見つけるたびに沈黙がやすらぎに満ちる。
緑水青山–
緑水青山という言葉がある。
山の木々が青々とし、水は生命力を蓄えている。自然の雄大さを表すとともに、この地球に生きる我々の心、そのありのままの姿こそが仏であるといった意味だと理解している。
宮古の水は無限の青がある。緑は深く、生きることを伝えている。私の心は何処へ行くのか、私にも分からない…
シルフェー–
陽は射していても白く曇る季節。花曇りという。 そしてこの頃の南風は白南風(シルフェー)と言うそうだ。
淡くシルキーな光とシルフェー。 名前をつけることで人は「見える」ようになる。
いつか、まだ名のないものを名付けてみたい。
ブーンミの島–
「ブーンミの島」を見る。ブーンミとは宮古の織物「宮古上布」の糸績みの意であり、それにまつわる人たちのドキュメンタリーだ。宮古の精神性を知るヒントがあるのではと思っていたが、いくつか印象的なシーンがあった。
ブー(苧麻)を育て糸へとするいくつもの工程で、ある女性は「きれい」という言葉をよく発していた。
「この音がきれい」「この色がきれい」美しさを日常から拾い集めること。繰り返す作業の中にも昔は美が潜んでいたのだと思う。
また染めの染料には小さな神が宿るという話があった。しかし糸に宿るのは神ではなく、作り手の精神である、と。
身近な植物から途方もない時間を積み重ねて、国内においても最上級の布は作られる。人間の知恵の結晶のような形をしたそれは、自然の意に沿った究極の創造物のようにも見える。無から有を生み出すのが神だとすると、島のオバァ達は神に近づいているのかもしれない、と大げさにも思ったりする。
自然界に神を見出す行為は、自分以外の何者かを拠り所として思考することだ。神と作り手が相交わってまた別のものを生んでいくこと。ここに宮古のユニークな精神性があることを知れた映画であった。