果実

これはミズレモン(ジャマイカンリリコイ)という果実。種を含んだゼリー状の実を口に含めば表現しがたい爽やかさが口いっぱいに広がる。南国ゆえの果実の豊富さが嬉しい。

捨てる

人生はいろんなものを捨てていく過程だとすると、私の道具である言葉も、図像も、写真も、選んで取得するのではなく捨てていくことばかり。

捨てて捨てて、それでも残るものはその事物たちが判断して、存在し活動していることを示すためだけにある。

それが最も美しいと思うし、そこにもう「私」はいないのである。

トランスヒューマン

人が書くということは人格の継承のスタート地点に点を打つことだ。それが線となりタイムラインが生まれればver2、ver3としての「私」は認識される可能性が増す。

生が死への抗いである以上、人は書くことを止められない。

人が死を受け入れたとき、それらは本物の文学になるのかもしれない。

書物

書物というのはあらゆる世界に向けて広がっているようで、思考という狭い世界で閉じる性質がある。

答えを求めて自身を強ばらせるために書物を手にするよりかは、遠くをぼぉーと眺めて脱力するほうが良いときもある。

とらわれ

この世の表現は大抵「とらわれ」であると思っている。よってそれを見たものが更に囚われる循環が生まれる。

ここの断絶、そして乗り越える力を可視化するのもまた表現であると信じている。

wonder

自分が何を中心に生きているか改めて自覚することはあるだろうか。自分は以前は視覚だった。視覚で得て、視覚で考え、視覚で出力していた。

なぜそうなったのかはよくわからない。幼少時からこだわりがあったので、そういう「生まれ」なのかもしれない。得てして人の性に理由なんてないのだ。

ソフィ・カルの作品に、海を見たことのない人に初めて海を見せ、その様子を撮影した映像があった気がする。こうした体験から得られるエネルギーはどれだけのものだろう。

子供の日々はこういった特別な得難い経験の連続だ。「?」や「!」が毎日ある。それを積み重ねて大人になるにしたがい「?」や「!」は少なくなっていく。しかしレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーで語られているように、目のつけどころ次第で自分の感覚はいつでも更新できるようにも思う。

キルリアン写真(物質のコロナ放電を捉える写真のこと)のように、特別な方法で見ようとすれば見えるものは数多くある。私はどんなときでもこの「事実を浮き上がらせるワンダー」を持っていたいと思う。

目を閉じて拠り所を探す。

燃える

人は生きたようにしか死ぬことはできない。全力で生き切る人だけが安らかに死に切ることができる。

class

もし美的なものにヒエラルキーがあったとすれば、人工的な美が最も下にあり、その次に皮肉やユーモアがある。そして最上位にあるのは、ただそれだけで満たされ過不足なく有ることの存在の証明ができるもの、であると思っている。

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