生きる意味–
生きる意味はあるのかという議論をよく見る。
「種の保存のため」という人がいる。しかしそうであればもっと単純な細胞で良いはずである。「幸福になるため」という人がいる。しかしそうであれば苦しみや悲しみをもたらさない脳に直接作用する薬などを打てば良いはずである。
生きる意味は誰にも定められていない。だから自分で定めることができる。ハイデガーは「存在と時間」で本来的な生き方と非本来的な生き方を明らかにした。
私達は「意味を問うのではない、意味を問われているのだ」。この意識で生き方はより本来的な方向へ向かうだろう。
無人島–
島にいると「島」に敏感になる。
ドゥルーズの著書に「無人島の原因と理由」がある。他者がいて初めて自我が生まれるなら、無人島に人が降り立ってもそれは無人島である。なぜなら他者ありきの私が存在せず知覚構造が成り立たないからである。
一方他者が無限に存在していたら他者は不知となり、自我はぼやけてしまう。またオンラインで人と繋がる時代といっても、それは同調的他者に限るのであって、否定的な他者はブロックできる。
認識や知覚の原理は人に元から備わっているとカントはいう。しかしそれを組み立てるにもアップデートするにも他者の批判が欠かせない。
私は毎日のように近くの無人島を見に散歩にいく。無人島は無限に想像力をくれるのだ。
水の宿–
頂き物、とらや「水の宿」。
京都にいたときは身近過ぎるほどの存在だった和菓子。
ここ宮古島の透き通る海と白砂にも見立てられて良き。
小さなダイナミズム–
生きていると常に変化がある。得ることと失うこと、その連続でもある。
その変化を線で繋げば大小のダイナミズムがあらわれ、過去の時間や人間の表現を見渡すと、過剰なほどの内なるエネルギーがそこかしこにある。
しかし今ここの現実というのは、その落差をあまり認識することができない。物事は穏やかに流れておりドラマティックに演出されない。だから人は見えないものを見ようとする。この現実にドラマを加え物語として消費しようとする。
たとえ小さな出来事でも大きな物語を紡ぐことはできる。ただしそこから生きる意義を見出さないほうがよいと思っている。ただ唯一起こった事実だけが確かなのであり、それをどう捉えるかには無限の解釈がある。だからこそ人は何かを得ても何かを失っても、ただ「幸せでいれるようにいる」必要がある。
世界–
世界というのはいくつもあるとも言えるし、そもそも世界はないとも言える。
少なくとも3つ、私達は「世界」を知覚する。
実在する自然世界、他者が認識する世界、そして私が見る世界。
(「世界」をすべてを包括するものと定義するか、セグメント化されたエリアとするかで意味は変わる。)
どの世界を生きるか、意識してみる。
実在する自然世界では目の前の現象を受け、そして目に見えないものを想像することができるだろう。他者が認識した世界では思いも寄らない人間の経験や知識、創作を得ることができるだろう。私が見る世界では私が思うように世界は広がり深みを増していくだろう。
それぞれの世界を呼応させて橋渡しをすることはできる。生きるというのはこの往来なのである。
果実–
これはミズレモン(ジャマイカンリリコイ)という果実。種を含んだゼリー状の実を口に含めば表現しがたい爽やかさが口いっぱいに広がる。南国ゆえの果実の豊富さが嬉しい。
捨てる–
人生はいろんなものを捨てていく過程だとすると、私の道具である言葉も、図像も、写真も、選んで取得するのではなく捨てていくことばかり。
捨てて捨てて、それでも残るものはその事物たちが判断して、存在し活動していることを示すためだけにある。
それが最も美しいと思うし、そこにもう「私」はいないのである。
燃える–
人は生きたようにしか死ぬことはできない。全力で生き切る人だけが安らかに死に切ることができる。