JOURNAL

新幻想

気づけば余白の大切さが叫ばれる時代になった。「多いことが良いこと」の時代にその余白の大切さを説いていた自分の情熱は今やや冷めている。余白を作り何をするか、好きなことをやれと人は言う。外的な刺激を削ぎ落とした結果、もし自分に何も残らなければ人間としてさも失格であるかのように。

生きることに目的はいらない、意味を紡ぐことが大事なんだ、と人は言う。しかし個人的な意味というのは非常に脆く、また共同主観になりえたとしても常に移り変わっていくものだ。意味がたとえ虚構であっても人はなぜ信じようとするのか。

人はピュシスをそのままに受け取ることはできない。だからロジカルに分解し意味を付与し、物語に作り変える。それが嘘であっても、何かが形作られることそのものが死を遠ざけることになる。では生きることは意味を紡ぎ、信じることなのか。混沌とした世界に自分なりに色を塗っていくことなのか。

もしそうだとすると、すべては「どんな幻想を生きるか」に関わってくる。自覚的な生とは、この世界で選択可能な幻想を選び取ることだ。新しい幻想は新しい人間らしさを生む。

しかしこれが進化となるのか、長くても100年程度しか生きられない私にはわからない。