あいだの深み–
石川直樹写真展「家のかたち」トークイベント写真家・石川直樹 / 建築家・伊志嶺敏子を見る。
世界各地のヴァナキュラー建築を収めた写真の展示と宮古島の風土からみる建築のあり方、暮らしと文化を問い直すものであった。
ここでヴァナキュラーという概念(及びその建築)と風土という概念について考えてみたい。
ヴァナキュラーは脱ヘゲモニー的で、人間またはその文化形態を有意性だけで階層化しないポストコロニアルな言説として、現代民俗学において特定の分野を指す意味において有効な用語である。しかしローカル肯定としてのヴァナキュラーとトランスローカルなヴァナキュラー認定にはズレがある。
というのも、ヴァナキュラーがローカル内部の運動の結果として発生した現象を指し示すのに対し、脱中心的な思考のベクトルとしてヴァナキュラーの発見は特権的な階層化を否応なしに含み、制度的に非アクティブ=ノン・エッセンシャルなものとして明るみにさらされる。
また、そこに美的な概念が見出されるやいなや、それはキッチュとして増幅されるか、もしくは継続不可能な文化の見世物的固定という形で取り残されるというケースをよく見てきた。
こういった外周に活路を見出そうとするアナキズム的動向は常にある。芸術の世界ではキュビズム〜ダダのアフリカ賛美、フルクサスの宣言、レヴィ=ストロースへと経由し、日本では民芸運動や鶴見俊輔の「限界芸術」などまで。
いわゆるレディメイド的発想は唯名論であり、内外部を問わずその土地発生のものがただ存在するにすぎない。
もしここでヴァナキュラーの「普遍性」が「風土」という概念だとする。すると「風土」は和辻哲郎によれば、地理的な空間における自然と人間との身体的な関わりであり、肉体の延長にあるものだ。
つまりヴァナキュラー建築はサイトスペシフィック的にそこにあるから「ある」のである。これを切り離すとスペクタクルとしての消費を加速させる。もしヴァナキュラー建築が別の文脈として機能することを考えた場合においては、例えばダン・グラハムの「アメリカのための家」のように、郊外住宅の連続する簡素さにポップアート的シリアル性とミニマリズムを見出す(かつ脱スキル的表象を付与させる)というケースが好例となる。
インターネットの出現はメディアの脱中心化だったが、検索システムやSNSによって再中心化されてしまった。これをどう見るか。
ジェイムズ・クリフォードが言うようにヴァナキュラリズムが目指すものは消滅ではなく生成の文法だとすると、その生成の転換期<あいだ>に如何にアイデンティティを移植させるかが鍵となる。
伊志嶺氏の緩衝帯=バッファゾーンの概念と<あいだ>。私は異邦人としてこのヴァナキュラーを慎重に見つめながら、この宮古島の<あいだ>について考えていきたいと思う。