スディル–
「CROSS MYAHK クロスミャーク 岡本恵昭 / 新城大地郎作品展 ― スディル宮古島の精神とこれから」を見る。
祖父の死をして当の禅僧が民間信仰の神事を撮影した写真を「強度」の観点で再解釈し、更に現代美術の土俵へ委ねるという力技にて、存在の再発見と再生=「スディル」を試みるといった展示であった。
私たちは常に何かを共有したがっている。ある種、無目的的に残された写真に確かなクオリアを感じ、継承していくこと――より新しい形で。ただし、関係性はクロスオーバーすることにおいて私たちの存在の確かさを示すものにもなり得る一方、時折重力のような重荷にもなり得る。
私たちはこういった民間信仰を新世代へどう受け継ぐべきなのだろう、とも感じる。民俗学において過去の意味の接続は神秘的かつ反理性的であり、気付きや意識の系譜は論理的言語に置き換えられないまま現象として表される。近代以降は有用性という判断基準で合理的に処理されるが、論理的接続されるものだけが息を深く吸える。
ここまでが守破離でいう「破」の段階だとすると「離」はどこへ向かうのか。
信仰というものが人間の認知構造や傾向から生まれ出ると考えると、不安や恐れを解消する役割を担いつつ新しい段階へ行くもの、つまりポスト宗教は汎用人工知能、もしくはホモデウス的人間そのものだと予測する。
しかし冬の風はビニール袋に入れても捉えられない。ただ浴びてその冷たさを感じるしかない。
作者が「共同体」という言葉で説明をしていたように、依り代をアップデートしつつも様々な信仰を越えて精神的な繋がりを持ち、補い合うこと。それは理性で語り得ぬがゆえに意識の上位の視座として、現代人が持つべき新たな文脈なのかもしれない。