JOURNAL
存在論–
AIによるクローン化が目の前に迫っている。メイヤスーの思弁的実在論、マルクス・ガブリエルの新しい実在論、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論など人は実在に夢中で、私たちの存在の確かさそのものを確かめようとする。ここで井筒俊彦という脅威の偉人に目を向けたい。
井筒は「花は存在している」の主語は「存在」だと言う。つまり言い換えると「存在が花のように現れている」なのであり、存在というものはそれぞれの現れによって在るのだと言う。
では存在しないとはどういうことかというと、これは「真空」という存在によって確かであると。そしてこれらの「存在する/存在しない」が「在る」の概念に則ったものであれば、それらを包括する上位概念が必要となる。それが「空」なのだ、と。
私は、私というものを究極に掘った先に在るものはありありとした明瞭な「空」だと感じている。私を構成する核が「空」だとして、その私が存在することを包むものもまた「空」なのだとすると、私たちは「空」を包み包まれている、という同時性の内、もしくは境に生を見出しているのではないかという気がしてくる。
ただそこにある。それだけで良いとされるのなら何と素晴らしいことか。