存在論–
AIによるクローン化が目の前に迫っている。メイヤスーの思弁的実在論、マルクス・ガブリエルの新しい実在論、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論など人は実在に夢中で、私たちの存在の確かさそのものを確かめようとする。ここで井筒俊彦という脅威の偉人に目を向けたい。
井筒は「花は存在している」の主語は「存在」だと言う。つまり言い換えると「存在が花のように現れている」なのであり、存在というものはそれぞれの現れによって在るのだと言う。
では存在しないとはどういうことかというと、これは「真空」という存在によって確かであると。そしてこれらの「存在する/存在しない」が「在る」の概念に則ったものであれば、それらを包括する上位概念が必要となる。それが「空」なのだ、と。
私は、私というものを究極に掘った先に在るものはありありとした明瞭な「空」だと感じている。私を構成する核が「空」だとして、その私が存在することを包むものもまた「空」なのだとすると、私たちは「空」を包み包まれている、という同時性の内、もしくは境に生を見出しているのではないかという気がしてくる。
ただそこにある。それだけで良いとされるのなら何と素晴らしいことか。
関係の自由–
ある日宮古島でタクシーを利用した。googlemapで行き先を見せ運転手に告げた。すると「わからない」という。地図を見せても理解しないのだ。これはかなり特殊な例でいろいろ思うところはあるが、つまりこうなのだ。
「土地や建物を相対的な関係性で理解はしているが、地図のような絶対的な位置で把握をしていない。」
これは人間においてあらゆる場所で散見される現象でもある。あの人がいるから私は幸せだ、とか、慣例ではこうなのでそれに従うべきだ、とか、パセリは洋食プレートの横に添えるものだ、とか。
人が記憶するときに有効な手段として「連想」がある。ものとものを連想させて、ひとつのものからもうひとつのものを思い出す方法だ。これは一見して人間的な合理性を持っているようで綱渡りのような関係性でもある。つまり首の皮一枚つながっているような不安定さゆえにいつその文脈から外れるかわからない。
相対的な把握、絶対的な把握、どちらにもメリット・デメリットはあるだろう。しかし相対的な把握のみで生きている人間は大きな欠落を背負うことになる。そしてそれに気づく瞬間が訪れることは少ない。
絶対的把握は自由の風を運び込む。恐れずにその風に吹かれていたいと思う。
拡張的古典事実–
近年の創造的な新しい概念を創世記や神話、古事記などの古典に出自を求める動きが時々ある。つまり最近のこの考え方はすでにこれこれに載っていたよ、と拡大解釈することである。
上記の神話は往々にして抽象的な事象の連なりであり解釈の幅がある。それを利用して、さも近年の新しいイデオロギーがそれらの神話によって予測されていた、もしくは発端だと主張するのは閉鎖的な宗教擁護者がよく行う手法である。
こうやって後付けで物事を過剰に接続し神格化させることは真の創造的行為ではない。ましてや現実のテクノロジーの拡張性や生物学的進歩の倫理性について何も解決しないどころか問題をややこしくする。
現実主義者と合理性、及び理性で物事を思考しない人間との溝は、今後より一層深まっていくだろう。
生きる意味–
生きる意味はあるのかという議論をよく見る。
「種の保存のため」という人がいる。しかしそうであればもっと単純な細胞で良いはずである。「幸福になるため」という人がいる。しかしそうであれば苦しみや悲しみをもたらさない脳に直接作用する薬などを打てば良いはずである。
生きる意味は誰にも定められていない。だから自分で定めることができる。ハイデガーは「存在と時間」で本来的な生き方と非本来的な生き方を明らかにした。
私達は「意味を問うのではない、意味を問われているのだ」。この意識で生き方はより本来的な方向へ向かうだろう。
放つ–
近頃「中央を空白にしておく」ということを意識している。
例えば、
他人は分かり得ず、どのようにも転ぶものだとする、
そこには意味はなくただ事実がある、
作り得ないということから作り始める、
など。
人は力んだ状態より、常にニュートラルでいたほうが柔軟に対応できる。細部まで決め切らず、その状態を認めて放っておくことも大事だと思っている。
art is–
諸科学が「A is B」を証明することを目的とし、哲学はこの「is」の部分を解明することを目的にしているとすると、芸術とは何だろう。
「A is not C」のAからCの歩み寄りかもしれないし、AもBもCも存在せず繋がりがないことを証明、もしくは証明さえできないことを示す態度かもしれない。ただそこに目的は存在し、「A≒B」もしくは「A to C」のような特異点としての知性的表層を生み出すことかもしれない。
芸術が理解し難いのは、それら表層から得られる感覚のラベリングが人によって異なり、認識にズレが生じることを許容している構造にある。これらを統合概念として名称を割り振り辛うじて共有できる場合もあるが、殆どは観念的で煩雑に散らばっているだけである。
そしてそれらを整理しつくそうにも、制作者は合理性よりも無意識的な誘惑を優先していることが多く、また知り尽くすに値しない過程を経ているものが殆どである。
結果、人は他者への興味が尽きてしまったり拡大解釈を繰り返す。それらは未整理のままに、自ら自己を外化する人間が後を絶たず、描かれた概念はいつまでも有用性とは程遠い円環を巡る運動となる。
近頃この辺りの知性の限界(と措定する)に興味があり、こういった無法地帯と基準、矛盾と整合性の揺れ動きこそが人間の素晴らしさと馬鹿馬鹿しさを示しているように思えて他ならないのである(褒めてる)。
無人島–
島にいると「島」に敏感になる。
ドゥルーズの著書に「無人島の原因と理由」がある。他者がいて初めて自我が生まれるなら、無人島に人が降り立ってもそれは無人島である。なぜなら他者ありきの私が存在せず知覚構造が成り立たないからである。
一方他者が無限に存在していたら他者は不知となり、自我はぼやけてしまう。またオンラインで人と繋がる時代といっても、それは同調的他者に限るのであって、否定的な他者はブロックできる。
認識や知覚の原理は人に元から備わっているとカントはいう。しかしそれを組み立てるにもアップデートするにも他者の批判が欠かせない。
私は毎日のように近くの無人島を見に散歩にいく。無人島は無限に想像力をくれるのだ。
まつろわぬ民–
まつろわぬ民という言葉がある。有り体にいうと権力に従うことを拒んだり、勢力の傘下に入らず独立している人々を指す。
私はこの言葉にいつも惹かれる。自分が生きてきたどの時代も「所属」を求められ、迎合するメリットを説かれてきたからだ。私はいつもそれを拒み、1人もしくは少数で動くことを意識してきた。
1人でできることは限られているし、孤独もある。認められないことへの不満や影響力の小ささを感じることもある。それでも尊厳を保ち、自らを律して立つこと。
まつろわない、は意思力だ。