JOURNAL
如去–
如来を意味するサンスクリット語のTathāgataには、如に行った(如去)と如から来た(如来)の両義が含まれている。つまり現象として現れてはいるが、流転に巻き込まれない真理に即した存在ということになっている。
人は両義的なものや大いなる矛盾を超越的なものとして作り出すが、それらは人そのもののアプリオリとして、予め特別でない性質として備わっているものだということを再認識する必要がある。
人が作り出す概念はどこかしら人間の内的な存在事項として見出されるものであり、人が人である限りそれらは予定されている。人が媒介しない契機はそもそも存在すら想像され得ないのだ。