JOURNAL

何でもない場

ここにはいまだ空地がある。空地はいわば何でもない場である。

人は自然の中に目的を持って建物を建て、何かの場へしていった。人が考えた「何かの場」は人の営みの証だった。

何かの場で完全に埋め尽くされた都市部は、どこも「誰かの何か」になっている。だから「空地」という呼び方は、やがて誰かの何かになってしまう予兆を含んでいる。そして無限に続くはずの自然が基準ではなく、埋め尽くされた誰かの何かが基準になっている。

これでは想像力も養えないだろう。

もはや私は何でもない場に人の営みを探している。何でもない場が何にでもなる予兆を感じている。

そして何でもない場を増やしていくのが私の営みであると感じている。