JOURNAL

事事無礙

華厳思想を学んでいると、理事無礙――事事無礙における理や事の生成過程やその関係性とアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの活動的存在、活動的生起の生成と価値化を比較したくなる。

華厳においては絶対的無分節、つまり空である「理」がひとつのものとして自己分節的に現象し、我々が経験的世界と呼ぶような森羅万象の世界「事」が生起する。つまり「理」は「事」に侵入して「事」そのものとなり、「事」は「理」を体現し、結局「理」そのものをあらわしている。

そして事と事が相互に関係して一つに融け合い、一つの事のなかに他の無数の事がイメージとして映り込むのが事事無礙である。

ホワイトヘッドでは活動的存在は唯一無二でありそこに一切の価値があるとされ、各々が主体となった連関世界において非連続の連続というあり方で生成消滅している。そしてその活動的存在は瞬く間に他の対象となり過去化しながら延長連続体へと埋没する。

双方において多即一、一即多であり、ゼロは無限性の地平へと投企される。

これら時間的契機における刹那滅や存在解体と再生成において、「生きた現在」をどのように矛盾から開放するかということが個人的思考の主題になりつつある。しかしそういったことさえも、断片的に分解と生成を繰り返した後の空虚な実感としてしか連続しないのかもしれないと<いま・ここ>で考えている自分がいる…